西洋絵画が日本に初めて到来したのはフランシスコ・ザビエル(1506—1552)率いるイエズス会が、1549年宣教活動のために持ち込んだ聖画(キリストやマリアを描いた油彩)だと言われます。西洋の遠近法によって描かれた写実的な表現は、墨画や日本画に親しんだ日本人の眼にどのように映ったことでしょう。そのザビエル来日から30年後の1579年、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539—1606)がイエズス会の巡察師として日本を訪れました。ヴァリニャーノは日本各地を巡察し、宣教には日本人聖職者の育成が急務と考えて、1580年肥前有馬(長崎県)と近江安土(滋賀県)に小神学校(セミナリオ)を、豊後国(大分県)に大神学校・修練院などの教育機関を設立しました。この神学校は日本で初めて西洋教育を行なった学校で、神学や語学以外にも音楽・体育、そして美術を教えました。その後1583年、イタリア人画家で宣教師のジョバンニ・ニコラオ(1562—1626)が来日し、この学校で本格的に絵画・水彩画・銅版画などを指導しました。
ヴァリニャーノはセミナリヨで学んだ日本人少年4人を、1582年「天正遣欧少年使節団」としてローマへ派遣します。旅の目的はローマ教皇とスペイン・ポルトガル両国王に日本宣教への援助を依頼するため、また東洋における自分たちの功績をみせること、さらに少年たちに欧州のキリスト教世界を体験させて日本での布教活動に役立てるためなどと言われます。この遣欧使節団は、8年半におよぶ長旅を経て1590年に日本に戻り、欧州で得た文化の知識はもちろん、チェンバロや5種類の西洋楽器、活版印刷機などを持ち帰りました。帰国後、使節団は豊臣秀吉に謁見しました。彼らは秀吉に欧州での見聞を伝え、持ち帰った楽器を使い西洋音楽を演奏して喜ばせたそうです。
しかし、すでに秀吉は日本に広がりつつあるキリスト教に脅威を感じて、1587年にバテレン追放令、1596年には禁教令を公布します。
その後、徳川江戸幕府も1612年に禁教令を布告し、1637年の島原の乱を経て1639年に日本は鎖国となり、絵画はもとより西洋文化伝来の歴史は一旦途絶えてしまいます。さらに鎖国から2年後の1641年、オランダ商館が平戸から出島(長崎)へ移されて、対馬・薩摩・蝦夷・長崎の四箇所のみが日本の外国貿易の窓口となりました。
江戸幕府による鎖国令からほぼ一世紀を経た1720年、徳川吉宗はキリスト書以外の洋書の輸入禁止を緩和し、長崎ではオランダを通じて「蘭学」と総称される学術・技術・芸術など欧州文化が入ってくるようになり、蘭学を学ぶものは蘭学者(蘭癖者)と呼ばれました。
江戸の浪人学者平賀源内(ひらがげんない/1728—1780)も蘭学者の一人で語学とともに医学・美術などを学びました。
1773年、平賀源内は秋田藩主佐竹義敦(さたけよしあつ/1748—1785)によって秋田へ招聘され、阿仁銅山をはじめ同藩領内の鉱山の再開発計画を依頼されます。当時彼は秩父中津川の鉄山開発と経営に携わり、鉱山事業の専門家として世間に知られてました。
源内が阿仁銅山に赴く道中、偶然泊まった秋田県角館の宿舎に飾られていた屏風絵に感心し、その作者小田野直武(おだのなおたけ/1749—1780)を宿に招いたそうです。源内は彼に鏡餅を真上から見たところを描くように請い、彼が言われた通り描くと「これではお盆だか輪だか判らない」と意見を述べ、そのあと初めて洋画の陰影法を教えました。そしてさらに持参した蘭書を取り出し、挿絵を見せながら洋画の理論と手法の大要を説明したという伝聞があります。これが日本洋画の礎となる「秋田蘭画(あきたらんが)」の中心人物小田野直武と、その基を築いた平賀源内との出会いです。
小田野直武は幼い頃から画才に恵まれ、狩野派を学ぶかたわら、浮世絵や南蘋派(※)の影響をうけたであろう作品なども残しました。平賀源内から洋画法を教示される直前の彼はさまざまな画風に興味を持っていた頃で、源内が示したまったく新しい画法に光明を見いだし、傾倒していったものと推察されています。源内との出会いのあと、彼はそのまま銅山再開発計画に同行しながら洋画について学びました。やがて銅山計画が頓挫し、源内が江戸へ戻った1ヶ月後に藩から「銅山方産物吟味役」という役を受け、源内のあとを追うように江戸に上って、そのもとで洋画法を習得しました。
小田野直武の江戸入りと同じ時期、源内の知人杉田玄白がヨハン・アダム・クルス「ターヘルアナトミア」の訳書の刊行を準備していて、附図一巻の模写を江戸に来たばかりの直武が手がけることになりました(おそらくは源内の推挙によるものと言われます)。これが日本初の西洋解剖学入門書「解体新書」です。
「解体新書」は直武が参加してから約半年後に出版されました。当時はまだ銅版画の技術が入っていなかったので、彼は原書の挿絵を毛筆で丹念に模写し、それを木版に刻し手刷りをしました。
小田野直武は「解体新書」の発刊後も平賀源内の元で洋画の習得に努めて、「不忍池図」「蓮図」など優れた作品を残しました。彼の最初の江戸滞在は5年に渡り、その後も佐竹義敦に従って2回目の江戸滞在を行ないましたが、突然義敦から遠慮謹慎を申し付けられて帰国、翌1780年5月に故郷角館にて病気のため32歳で急逝しました。彼の洋風画制作期間は7年足らずで、その殆どを江戸で過ごしたことになります。
※南蘋派(なんぴんは)=中国清代の画家・沈南蘋(しんなんびん)から直接指導を受けた熊代熊斐(くましろゆうひ)やその門人などによる画派
小田野直武の藩主、佐竹義敦こと佐竹曙山(さたけしょざん)も直武とともに洋風画の確立に尽力しました。
直武の一歳上で1748年生まれの曙山は、1758年父義明の死去により僅か11歳で家督を相続して秋田藩の藩主となりました。「曙山」とは画号で幼い頃から狩野派に絵を学びました。
曙山の絵に対する情熱には並々ならぬものがあり、直武に「銅山方産物吟味役」という役を付けて江戸へ出立させ、源内の元で洋風画を学ぶよう手配したのは彼だと言われます。また直武が江戸から一旦角館に帰国したあとも、曙山のいる久保田本城へ引越を命じて自分の側近として召し抱えたり、また江戸行きの際には同行させたりして、彼から洋画法を学びました。
1778年9月、曙山は直武の協力を得て「画法網領」「画図理解」「丹青図」という日本で初めての洋画論を書き表しました。
前述のように佐竹曙山は1779年11月、突然小田野直武に謹慎を申し付けて江戸から角館(秋田)に退けます。ちょうど同じ時期に平賀源内が誤って人を殺めた罪で投獄されたので、源内と深く関わっていた彼も連座して処分を受けたのではないか、など諸説あります(源内は同年12月に52歳で獄死)。
佐竹曙山は「燕子花にハサミ図」「椿に文鳥図」「松に唐鳥図」などの優れた作品を残して、直武の死から5年後の1785年に38歳でその生涯を終えました。のちに曙山や直武ら同時代の秋田藩士による創作活動や作品群は「秋田蘭画」と称されました。
秋田蘭画派は小田野直武と佐竹曙山のほかに、同じく直武から洋風画を学んだ角館城代佐竹義躬(さたけよしみ/1749—1800)、秋田藩士の田代忠国(たしろただくに/1757—1830)や荻津勝孝(おぎつかつたか/1746—1809)らと共に隆盛しましたが、直武と曙山という主軸の2人を相次いで失ったあと、次第に衰えて姿を消しました。
その後、秋田藩士たちによる一連の活動は長らく歴史の表舞台から忘れ去られていましたが、のちに同郷の日本画家平福百穂(ひらふくひゃくすい/1877—1933)が著した「日本洋画曙光(にほんようがしょこう)」(1930年発刊/岩波書店)によって初めて世に紹介されました。百穂はこの書のなかで秋田蘭画の成立はもちろん、解体新書の附図や曙山の洋画論、洋風画の技法について詳細に記し、秋田蘭画とその一派は日本における洋画史のパイオニアとして再評価されるようになりました。
江戸の絵師であり蘭学者の司馬江漢(しばこうかん/1747—1818)も秋田蘭画と同じく日本洋画史に重要な役割を果たします。
秋田蘭画の諸氏同様、江漢も幼い頃から画才に恵まれ、十代の頃狩野派の画家に弟子入りして絵を学び、その後父の逝去に伴い家計を支えるために浮世絵師鈴木春信の門下に入りました。数年の修行ののち江漢は「鈴木春重」の名前で活動し、また師匠春信の急逝後はしばらく二代目春信としても錦絵を手がけました。
幼い頃から「一芸をもって名声を得る」という野心を抱いたと言われる江漢は常に新しい表現を探し求めて、浮世絵の版画工を辞めた後は、南蘋派の宋紫石(そうしせき/1715-1786)のもとで写生体花鳥画を学ぶなど、様々な画法を貪欲に習得しました。そして恐らく宋紫石か鈴木春信によって平賀源内と知己になり、源内を通じて次第に西洋絵画や技法に傾倒していきました。江漢は洋風画の理論を源内から、実技を直武から学んだと言われます。
小田野直武は日本画の画材を使い西洋画の技法によって描きましたが、司馬江漢は荏胡麻(えごま)油という油を媒剤に使い絵具を作り油絵を描きました。一方平賀源内も「西洋婦人像」という油彩作品を残しており、また最初の章で紹介したイエズス会の神学校でも多くの日本人画家を輩出したことが伝えられているので、司馬江漢が日本人で初めて油絵を描いた人物か否か定かではありませんが、聖画以外の日本人の手による洋画という点で最初期にあたることは間違いないでしょう。
司馬江漢の興味は絵画だけに留まらず、日本初の腐食銅版画(エッチング)を手がけた人物としてその名を残しました。
また当時珍しい写真鏡(ドンケルカーモル)と呼ばれる「カメラ・オブスクラ(オランダの画家ヨハネス・フェルメールが使用したことで有名な光学装置)」を作品制作に用いたという記録が残っています。さらに佐竹曙山と同じく「西洋画談」(1799年発刊)という洋画論も公刊しました。
美術以外も和蘭茶臼(コーヒー挽き)や「耳鏡」と名付けた補聴器を作って販売し、自然科学の分野では世界の地理や西洋の天文学を紹介したり、「地動説」の普及に尽力したりと、蘭学者ら進歩的知識人たちとの交流から得た知識を基に多岐にわたって活動しました。
一方その奇行も伝えられており、晩年(1813年)には人との交流を避けるために「司馬無言辞世ノ語」という自分の死亡通知書を配りました。
この刷物を配ったあとは、街で知り合いに呼び止められると走って逃げたとか、振り向きざまに「死人だから喋らない(死人豈言を吐かんや)」と答えた、などと言われています。結局そのまま隠居生活を送り、1818年に72歳でこの世を去りました。
その後洋風画の技法や画論は高橋由一ら次世代の画家によって受け継がれて、開国後の本格的な西洋文化到来とともに日本近代洋画として発展していきました。
また秋田蘭画の大胆な構図(大きく描いた近景と遠景と組み合わせる描き方)は、司馬江漢や弟子である亜欧堂田善(あおうどうでんぜん/1748—1822)らが受け継ぎ、さらに同時代の浮世絵師歌川広重や葛飾北斎らに影響を与えました。
やがてそれらは海を渡って、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853—1890)やクロード・モネ(1840—1926)などヨーロッパの画家を中心としたジャポニスムの流行へと繋がりました。極東島国の地方藩士や蘭学者、絵師による西洋絵画への情熱は、奇しくも西洋近代絵画の主流へと影響を与えた形となったのです。
平福百穂(2011)『日本洋画の曙光』岩波書店(岩波文庫)
高階秀爾監修(1996)『江戸のなかの近代~秋田蘭画と解体新書~』筑摩書房
鷲尾 厚(2006)『復刻 解体新書と小田野直武』無明舎出版
『司馬江漢』(1998)新潮社(新潮日本美術文庫15)
『司馬江漢の絵画ー西洋との接触、葛藤と確信』(2001)府中市美術館(展覧会図録)
「フランシスコ・ザビエル肖像」(神戸市立博物館)
狩野内膳「南蛮屛風」六曲一双(神戸市立博物館)
小田野直武「不忍池図」(秋田県立近代美術館)
小田野直武「蓮図」(神戸市立博物館)
杉田玄白「解体新書」(京都大学付属図書館他)
佐竹曙山「椿に文鳥図」「燕子花にハサミ図」(神戸市立博物館)
平福百穂「日本洋画曙光」表紙(1930年/岩波書店)(画像:源喜堂書店)
高橋由一「司馬江漢像」(東京藝術大学)
司馬江漢「相州鎌倉七里浜図」「三囲景」(神戸市立博物館)
歌川広重「亀戸梅屋舗」(東京都江戸東京博物館他)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ「梅の開花〜広重を模して〜」(ヴァン・ゴッホ美術館)